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講師の大嶋優さん
(関西学院大学フランス語講師)
映画の時代背景、タイトルや
セリフのフランス語の意味、
監督の生い立ち、などなど
客観的に解説してくれます。
あまり私的な解釈を加えずに
あくまでも鑑賞者の感性で
映画を見てほしいという意図
があるようです。
しかし 、大嶋さんの個人的な
映画に対する思いを聴くのも
大変興味深いものです。



















































































『グラン・ブルー』は壮大なるロマン 

第19回大嶋講座と映画レビュー 『グラン・ブルー』(1988年、監督リュック・ベッソン)


 >>>記者・いわたレポート


イルカと戯れるジャック

という色は、人種や文化圏を超えて、世界であまねく好まれている色だそうだ(『色の博物誌』/朝日新聞社 参照)。しかし、青という色の持つイメージは、国や文化の違いで随分と違うものである。大嶋さんによると、フランスでは、青のイメージは、夢や希望だという。日本では、逆のイメージが青にはつきまとっている。心がブルーといえば、暗く沈んだ気持ちのことになる


さて、今回
取り上げた映画『グラン・ブルー』を直訳すると「大いなる青」となるが、フランス語のタイトル『Le Grand Bleu』に秘められた意味とは? リュック・ベッソン監督がこの映画に込めたものは? 公開当時フランスの若者たちの絶大な指示を集め、「Grand Bleu Generation」と呼ばれる社会現象にまでなったというが、若者達を惹きつけた魅力とは何だったのか?

これらの問いに、大嶋さんの解説を元に、記者独自の視点で『グランブルー』の世界を垣間見てみたい。
若者の心を取り戻せるかもしれない!?  


タイトルは女性名詞から男性名詞への変換

大嶋さんの解説1「感性で見よ!」

「今回の映画は“ネオ・ヌーベルバーグ”の作品。ネオとは新しいという意味で前回紹介したヌーベルバーグの潮流から約30年を経た1980年代に生まれた「新・新しい波」という意味
です。1945年から75年の30年間をフランスでは、栄光の30年と呼び、高度成長期で、経済発展した時期でした。73年に第一次オイルショックが起こり、バブルが崩壊していく。そして80年代には安保があり、新貧困層と呼ばれる人たちが生まれ、社会格差が大きく広がっていく。
その80年代に、それまでのヌーベルバーグでは飽き足りなくなる。ヌーべルバーグは、基本的に言葉を中心に、社会への鬱憤を映画に託した。それがネオ・ヌーベルバーグでは、映像の美しさや音楽の斬新さで、感性に訴えることを重視したのです。ヌーベルバーグが理性に働きかけたのに対し、ネオ・ヌーベルバーグは、言葉では表せなかったものを感性で表現し、琴線に触れるものを映像にしようという目標があったのです」

と大嶋さんの解説だ。
そこで、記者がこのグランブルーの映像から感性に触れたシーンをスナップショットして掲載してみた。いかがだろう?まずは文章を読まずに、写真だけを見て頂きたい。そしてこの美しい世界のその奥に何が秘められているかを想像して頂きたい。映画は、その世界へ誘っている。

グランブルーの世界1 死と隣り合わせの海に生きる

映画は、主人公ジャックの少年時代から始まる。場所はギリシャ。映像はモノクロームだ。
岸壁を走り抜け海に飛び込むジャック。素潜りで岩場の生物に手で餌を与える姿が映し出される。言葉はないがジャックと魚のコミュニケーションが感じられるシーンだ。ジャックは内気な少年だが素潜りが得意である。友人のエンゾも素潜りが得意で、こちらはガキ大将だ。将来はよきライバル同士となる。

ジャックの父親は潜水夫をしている。海に潜り漁をする。ジャックも船上から手伝う。ある日、潜水中に事故で父親を亡くしてしまう。ジャックは船上に居ながらどうすることもできず泣き叫ぶだけだった。母親は早くから海の虜となった夫に愛想を尽かしてニューヨークに帰っていた。一人ぼっちのジャックにとって彼の心の拠り所は、海であり、イルカであった。ジャックが少年時代にイルカとどう関わったかは分からないが、青年となったジャックは、財布ケースにイルカの写真を携帯していた。恋人にその写真を見せて「僕の家族だ」と自分を哀れむ。

父親を海で亡くし、海の恐さを熟知していたと思われるジャックにとって、海は、死の危険を伴う場でもあると同時に彼を包み込む母のような存在でもあったことだろう。

――あなたにとっての海とは?自分の帰る場所は?何だろうか。

大嶋さんの解説2「監督の海への思いを映画化・そしてタイトルに」

『グラン・ブルー』(大いなる青)のフランス語のタイトルは『Le Grand Bleu』。青色のイメージは、フランスでは、「夢」や「希望」のイメージカラーです。その意味から言えば、『グラン・ブルー』は、「大いなる夢」という意味に解釈しても間違いではないでしょう。映画に詳しいフランス人に話を聞いたところ、『Le Grand Bleu』は男性名詞だが、これを女性名詞に変えると、「La Grande Bleue」にな
ります。フランスで、「La Grande Bleue」と言えば、地中海のことです。つまり、リュック・ベッソン監督の発想で、地中海(La Grande Bleue)という言葉から、それを男性名詞に変えて『Le Grand Bleu』という造語をつくったのではないかと思われます。
地中海の真っ青な色のイメージから作った造語で、「大いなる青」と訳しても構わないかもしれ
ませんが、元は地中海のイメージから来ているのです。

では、なぜリュック・ベッソン監督は、こんなタイトルをつけたのか。
彼の両親ともスキューバーダイビングのインストラクターをしていました。彼も17歳までスキューバーダイビングをやっていたが、事故で止めてしまった。ただ、この映画は、彼の原点でもあり、彼が自分の海に対する思いを映画化した作品と言え
ます。芸術家は自分の夢の世界を形に作り上げるものだ。彼の代表作であり、自分の夢を託した作品だろうと思う。そういう意味でタイトルを「大いなる夢」と訳しても間違いではないと思います」(大嶋)

なるほど、タイトルは、女性名詞から男性名詞への変換から作られた言葉。ここにも映画から感じ取った「大いなる夢」(グランブルーの世界)に通じるものがある。

――あなたにとっての「夢」とは何?



時は経ち、エンゾはフリーダイビング競技のチャンピオンになっていた。
そのエンゾは、ジャックこそ俺のライバルと考え、探し出して競技会で勝負しようと思い立つ。


その頃ジャックは、アンデス山脈の湖で、研究の被験者となって、氷結する湖に素潜りをしていた。

たまたま、ニューヨークの保険会社からアンデスに自動車事故の調査に赴いたジョアンナは、その湖でジャックと対面する。彼のピュアでストイックな姿に一目惚れするという運命的な出会いがある。
 ペルー・アンデス山脈

 ジョアンナの住むニューヨーク

 真っ青な地中海



ジャックは、エンゾの誘いに乗り、競技会の開かれる地中海沿いの町コート・ダジュールにやってくる。
ジョアンナも、ジャックの後を追いかけて来る。


ジャックは、初参戦で107mを潜り、エンゾを抜いてチャンピオンに輝く。


ジャックの海中からの浮上と共に、イルカたちもシンクロする


グランブルーの世界2 その愛が真実なら永遠に連れて行く

ジョアンナも、ジャックがイルカの虜になっていることに愛想を尽かし、ニューヨークに戻ってしまう。しかし、ジョアンナの思いは募る一方。電話でジャックと話をする。ジャックが人魚の話をはじめる。

「人魚と暮らすには、深い海に潜るんだ。
 深すぎてブルーは消え青空も思い出となる。
 海底の静けさの中でじっと沈黙して― 
 人魚のために死んでもいいと決意すると― 
 人魚たちがその愛を確かめに近づいてくる。
 その愛が真実で― 
 純粋で人魚の意にかなえば― 
 僕を永遠に連れていく。」


ジャックはいつでも海を見ている。そのジャックをジョアンナは愛する。

ジョアンナは、妊娠する。
「あなたのこと 愛してるわ 一緒に暮らしたい 子どもが欲しいの 家庭を作るのよ 
車も犬も欲しいわ 私 妊娠したみたいなの」
その言葉は、ジャックには通じない。





父親を亡くした海岸に二人は立っている。
エンゾも競技中に海で命を落とし、「陸よりも海の中がいい」と呟いて、最期を遂げる。


映画のラストシーン。ジャックは、ジョアンナの「ここに私がいるのよ」という言葉を振り切り、「見に行く」と言って深海に潜っていく。海の底にイルカが姿を見せる。ジャックはロープから手を放しイルカの元へ消えていく‥

大いなる夢へ

初めてこの映画を見たとき、ラストシーンに何か腑に落ちないものが残った。むしろジョアンナに同情する自分がいた。
しかし、再び見直してみると、大いにジャックの気持ちに共感するものが自分の中に立ち上がった。監督が伝えたかったのは、これかもしれない、という思い。
「大いなる夢」の世界。感動と共に湧き上がるものがあった。

その世界のスケール感は、アンデス山脈から、ニューヨークの大都市から、美しい地中海から、そして深海からと伝わってくる。

スキューバーダイビングの経験がない観客に、その魅了を如何に伝えるか、考えに考え抜き、あるいは感性によって仕上げた作品であるのだろう。形ではとらえられない「夢」という抽象世界の表現。各シーンが、その世界の象徴でもあり、あるいは、対峙する現実世界として、際立たせている。

例えば、ジョアンナが心底愛しているにも関わらず、その愛よりも深く、ジャックは海の底を愛している、という振り幅。家庭を作りたい、子どもを育てたい、というマイホーム的な幸せをジョアンナが求めれば求めるほど、ジャックの思いは遠ざかる。

エンゾとジャックが深海で仕事をする場面がある。二人は禁止されていた酒を潜水艇の中で飲み、酔ってダンスを始める。地上からの命令もまったく無視。結局解雇となるが、海底にはそれほど人を狂わすものがあるというエピソードとして解釈した。

ジョアンナとの性交の後でもジャックは一晩中、海のイルカと戯れる。彼にとってのイルカは何だろうか。性交中でさえ、彼はイルカとの戯れを空想している。

ストーリーの展開と共に、いつしかジャックの世界に、思いを巡らしはじめる。
具体的な言葉で伝えているのが「人魚と暮らすには」の話だ。
ジャックは、人魚と暮らしたい、と幼い頃から思っていたのだろう。

海の中には、人魚が暮らしている世界があると彼は信じていた。
リュック・ベッソン監督自身がそう信じ、映画にしたかったのではないだろうか。

“人魚の暮らす世界” それは御伽の国だろうか? 現実にはありえない世界だろうか?

ジャックは海の暮らしの中で、こどもの頃から、そういう世界にいたのではないだろうか。純粋で汚れのない人魚たちが暮らす世界に。イルカの世界もそういうものかもしれない。

この映画で、ジャックの気持ちになれた時、自分の中のピュアの心がふっと蘇ってくるようで、それが「大いなる夢」となって希望となって自分をその世界へ誘い出してくれるような感覚になった。

(記者:いわた)    前の記事に戻る

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