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子どもの「冒険心」が世界を変える!

映画『ぼくセザール10歳半1m39p』(2003年、監督 リシャール・ベリ
に潜む世界平和への願い

大嶋さんの講座 大嶋優さん

映画が一転!人生の書に!

夏のお盆の時期、久しぶりに大嶋さんの講座が開かれた。 毎回一つの映画を取り上げて、そこに見られるフランス文化のエッセンスを解説してくれる。大嶋さんはフランス語講師で映画通だ。作品に潜むメッセージや背景を掘り下げ問題提起をする。その問いかけは映画が映画に終わらず、人生・哲学、思想へと発展し、自分や社会の見方を変えてくれることがある。

今回は『ぼくセザール10歳半1m39p』という2003年のフランス映画が題材。子どもを主人公にした冒険コメディだ。エンターテインメントとしても十分楽しめる内容だが、ここに大嶋さんのメスが入ると、一転! 文化や歴史が湧きだしてくる。そして投げかける…
「作品に潜むメッセージは何だろう?」
そこを問うにはそれなりの訳がある。自分なりの答えを見つけ出せたとき、世界を見る目が変わる!


冒頭とラストが意味するものは…

  葬儀シーン

講座で、大嶋さんがとても興味深いことを語った。

「私は映画を見るとき、冒頭とラストシーンが気になります。そこに監督のメッセージが込められている気がして…」

30回も開いてきた講座で、初めて耳にしたような言葉だった。
分かりやすい焦点の当て方だと単純に思った。が、特にこの映画に関しては、ということだろう。
その冒頭とは埋葬シーンだ。それがユダヤ教の葬儀であることや、レッドリボンが映されることの意味を大嶋さんが明かす。
「フランスでは国家の0.7%、47万人がユダヤ教です。その10倍の471万人がイスラム教。以前、取り上げた映画『憎しみ』を制作した頃とはかなり様変わりし、今は差別や迫害が激化しています。
監督自身がユダヤ人で、ユダヤ教への偏見差別をなくしたいことと宗教や人種を越えて平和を願うメッセージが作品に込められているのではないか」と。

「世界平和」と「子どもの大冒険」どんな関係があるのだろうか?
以下に、私が見つけた結論を映画のネタバレもお断りして紹介したい。私自身がインスパイアされた中身をお伝えできればと思う。


小さな恋の行方は…

サラとセザール

『ぼくセザール・・』は、小学5年の男の子。ちょっと太目で運動音痴。親は習い事をいくつもさせるが一つも物にならない。クラスでも目立たぬ存在だ。名前の「セザール」は、英語で「シーザー」、皇帝の名前だ。姓は「プチ」、小さいという意味。日本語にすれば「小さな皇帝」となるが、そんな風格はない。取り柄はなさそうだが愛されキャラでもある(映画の主人公なだけに)。

セザールには、同級生で親友のモルガンという男の子がいる。見た目も格好よく、スタイルもいいし運動神経も抜群だ。シングルマザーの家庭で、買い物も料理も一人でこなし、セザールは一目置いている。

ここに、サラという学校一の美少女が転校してくる。淡い恋心を抱くのがセザールで、ライバルは親友のモルガンとなる。セザールの呟きが可笑しい。
「僕が彼女の気を引けるとしたら容姿以外。(それを)10歳の女の子に求めるのは難しい」
「サラの目に映るモルガンは容姿も完璧。ユーモアもある。教えてほしい!なぜカッコいい男だけがモテるんだ」 とモルガンに嫉妬するセザールなのだ。

ところが、この3人が挑む大冒険で、結果的にセザールは美少女サラをゲットしてしまう。というストーリーなのだが、それが言いたいことではないだろう……。

セザールには権威を振りかざす父親がいたり、いつでも不利な立場にいる子どもの象徴でもある。しかし、子どもたちも大人に屈している訳ではない。映画ではむしろ大人社会の馬鹿ばかしさ(不条理さ)を露呈し、子どもの行動に活路を見出そうとしている。

ハラハラドキドキの大作戦…

中央がモルガン

ある晩、セザールはサラを自宅に招く。二人でテレビを見ていると父親に怒鳴られる。「悪影響だ。寝なさい!」、言い合いになり突き飛ばされて泣きわめく。そこにモルガンが家に駆け込んでくる。外は激しい嵐で停電になり一人で家にいるのが怖いと泣きべそ顔。
サラの前で二人とも恥をかいてしまう。
それが引き金になったか、モルガンはイギリスに父親を捜しに行くと言い出す。生まれた時から父親の顔を知らないのだ。父の名前とロンドンにいることしか手掛かりはない。サラが「イギリスは英語だから一緒に行って手伝ってあげる」という。
横にいたセザールも、「ぼくも行く」と言う。「パパの顔を見たくないから」
(父の顔を見たい子と見たくない子の対比も絶妙)

いよいよ3人の大冒険が始まる。 週末が決行日だ。旅費をどうするか?サラは父のヘソクリを知っているという。セザールも父のカードの暗証番号を知っている。そこから金を引き出すことに成功する。12歳未満はロンドン行きの券を買えないという問題もサラがさらりとクリアー。そして親たちを騙し内緒で当日を迎える。

ここでも絶望的な状況になる。セザールだけパスポートがない。行かれない。この世の終わりだ・・と思う。が運よく3人は国境を越えてロンドンへ。

しかし、またまた問題発生!サラが行方不明!今度こそ最悪の事態! セザールもチンピラに絡まれて、ハラハラドキドキの展開へ。ここでも救世主現るだ。グロリアというおばさんに救われる。そのグロリアの協力で、モルガンは、とうとう父親に対面することになる。

 3人の救世主グロリアおばさん

冒険旅行で見つけたものは…


無謀ともいえる子どもだけの冒険旅行は、結果的には大成功。
そしてセザールを取り巻く家族にも変化が起こる。

セザールの父親は子どもとの時間を取り戻そうとよく話をするようになる。サラの母も離婚していた夫と再婚。モルガンのパパは時々訪ねてきて親子の交流が始まる。イギリスから渡ってきたグロリアは人気者になり、一人身だったが一度に4家族も増えた。

ラストは、みんなが楽しむおまつりシーン。色とりどりの風船が空高く舞い上がってファインとなる。

「こうしてサラはぼくの婚約者になった」
そう、この映画は、セザールが大人になって作った回想でもある。 セリフはこう続く。

「ぼくはもう『小さな坊や』とは違う。生まれて始めて自信を持つことができた。ぼくにとっては驚くべき変化だ。どんな小さな人間でも自分の運命を変えられる。『セザール』だけでも『プチ』だけでもない。本当の自分になれた」

映画を見終えて、自分の気持ちも爽やかに空に舞う気分になれた。

風船が舞い上がるラストシーン

常識を破る勇気…


子どもはとても弱い存在だ。

そして、大人の権威の中で、自由をも奪われている。普段、そんなふうに子どもを見たことはなかったが、映画の中でいつしか自分も子どもの気持ちになっていた。

カメラは、子どもの目の高さで回っていく。その高さから見る大人たちはみな威圧的で、子どもを見下して見える。語り口はセザールの幼い声で進み、大人の態度を訝しがる。時に夢か現実か不確かなシーンもある。不鮮明な記憶を手繰り寄せる操作だろうか。こうしたアングルとシチュエーションがいつしか鑑賞者を子どもの感覚に戻していくのだろう。不安や恐怖心も主人公の息づかいに共振する。そして、知らぬが故の冒険心が湧きたってくるのだ。そうだった、子どもの頃のこの根拠のない自信と感覚。仲間たちとなら無謀なこともやってのけていたことを思い出す。

大人の言いなりになりたくない、それが子ども心だろう。
大人の言い分は、常識や世間体や見えや体裁だ。
子どもはそんな権威を振りかざす態度に屈服したくないのだ。(否、子どもだけではない)

セザールたちは、常識をもろともせず、国境を越えて、願いを叶えた。
その勇気こそ、実は、大人たちが遠い過去に忘れてしまったものではなかったか。

素のままの強さ…


なぜ、子どもは、そんな大胆なことができるのか、弱くて脆い生き物なのに。

(自然界は、決して強いものだけが生きているわけではない。小さな虫も、植物も、強さだけが生存理由ではないだろう。戦えば弱い動物もしっかり繁栄している。
むしろ強い生物の方が絶滅危惧種?・・ちょっと話がそれるかな…)

弱いと感じて、強くなろうとする。それが弱肉強食の発想だろう。
しかし、子どもは子どもでしっかり生きている。親の愛、大人の愛を受けているから。
弱いもの、小さいものほど愛らしい、その愛こそ最強ではないか。
強くなろうとして、自分を鎧で固め、自分が自分を守ろうと身動きとれない状態になる。
その鎧は脱いで、そのままの自分でいたら、本当はそこに愛が注がれているのだ。

これが、子どもが健気に生きている生き方なのではないか。

少数派は弱小に見え、強がって抗おうとするが、そんな必要のないことを映画は物語っているのかもしれない。本当の自分になれたら、全てのものが共存できると。

その道が世界平和へ通じるのだと、掘り下げて、掘り下げて、考えた。
(記事:いわた)

映画を見終えての直ぐの感想》》》吉田さんのレポート

次回の講座は 12月25日(日)午後4時〜
ジョイス・シャルマン・ブニュエル監督の『サルサ』(1999年)を取り上げる予定

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