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カミーユ・クローデル本人の
写真


映画でカミーユ役を熱演した

イザベル・アジャーニ



映画の1シーンに登場するゴッホの
絵画。『鴉の群れ飛ぶ麦 畑』
(1890年作)拳銃自殺する2年前に
ゴッホが描いたもの。 暗く不穏な空模
様や鴉の群れが飛ぶ不吉な風景画で
自らの運命を予見するような作品だ。
映画の中では、カミーユの被害妄想
が激しく、精神に変調を来たしている
様子の中に上記の絵が登場する。
まるで、カミーユの行く末を暗示する
かのように。



カミーユが妊娠していることが発覚。
その病院での1シーン。
ここに、屏風がさりげなく使われて
いる。カミーユは、日本絵画も愛し
北斎の浮世絵にも魅了されていた。
『冨嶽三十六景』の『神奈川沖波裏』
からヒントを得て
カミーユは 『波』を制作している。



映画の1シーン
ロダンは畑の野菜を取り出し、
「なんと官能的だ!」
と呟く。人体だけでなく、自然界の
あらゆるものに官能性を感受して
いた。




























































“激情の女性”A 「創作の溶鉱炉」からのほとばしり

わたしの映画レビュー 『カミーユ・クローデル』(1988年、監督ブリュノ・ニュイッテ)
/いわたたかし
 



 カミーユ作 『ヴェルトゥムヌストポーモーナ』(大理石)――1888年にサロンに出品された『サクンタラー』(Sakountala)を後に大理石に刻んだ作品。ロダンとの恋愛体験を投影したといわれている。

カミーユ作品の魅了

カミーユ・クローデルの彫刻には、どこか未完成な部分を残し、塊から人体が浮かび上がったような、自らに未熟な生命を宿し、生まれ出てきたような印象を持った。
映画の冒頭シーンが彼女の制作意欲を象徴している。2月の雪積もる寒い夜中、弟のポールが姉のカミーユを真夜中に探し回る。カミーユは塑像に使う粘土を一心腐乱に採取していた。粘土を持ち帰ると簡単な朝食を済ませ、モデルの男性を座らせて、制作に没頭する。その姿は何かにとり憑かれているかのようで、その“激情”ぶりが伝わってくる。
私は、 彼女の創作意欲の元、そこまで駆り立てるものは何か、関心が向いた。


映画で、ロダンが「君には知性があり心で形を造る、ただし技術がまだだ。私の弟子になるか?」と尋ねるも、カミーユは「教えも助言も要りません。生きた課題に挑みたい」と断る。
既にカミーユの内部には蠢く衝動があり、まだ形を成さずにその表出を待っているようでもあった。


ロダン作『接吻』(1887年)撮影:大嶋優

ロダン作品に潜むカミーユの存在

そして、カミーユはロダンに自分の才能を認めてもらうことを望む。まもなく、弟子となり、モデルとなり、愛人となっていく。やがて妊娠・中絶、決別を迎え、精神を病み、精神病院に収容されて30年を過ごす。
映画では、無情な刹那さが後に残る。

そんな彼女の 後半生があったことを知ると、彼女の作品に、何かその片鱗を読み取ろうと気持ちが働くものだ。実物の作品に出会ってみたい思いが募る。

作品を味わうとは、作者の背景に目を向けることでもある。そんな意味でも芸術家の人生を綴った映画は貴重だ。カミーユ役を演じたイザベル・アジャーニの熱演にも拍手を送りたい。
ロダンの影に見え隠れしていたカミーユの存在に光を当てた映画であるが、この映画によって、ロダンの作品の見方もまた、違ってくるように思う。
カミーユは、自作をロダンの模倣とも評され、その呪縛にも苦しんだ。

互いに影響し合い創作されたものを、どちらが、どちらのものと言い切れるものかどうか…
模倣か作者の創造か、そのどこに一線があるのだろうか。

ロダン作品の中にカミユーの存在を認めないわけにはいかないだろう。

カミーユは、ロダンに様々なインスピレーションを与えている。映画の中では、カミーユについて、ロダンは「私の霊感の源だ」とつぶやく。また、『地獄の門』や作品づくりにカミーユからヒントを得るシーンもある。

芸術家同士、互いに反発もし、また尊び、競い合う。カミーユがいてのロダンであり、ロダンがいてのカミーユでもある。

オリジナリティとは何か

また、ロダン作品と言えども、そこに潜む様々な影響が考えられる。――ロダンが衝撃を受けたというミケランジェロもその一つだろう。ルーブル美術館で学んだギリシャ彫刻からも多くのものを吸収している。ましてやモデルを使い創作するのは、モデルを模倣しているとも呼べる行為だ。特にロダンは、自然物や人体などのモデルから美を感じ取ることにこだわっていた。
――そう見ていくと、ロダンやカミーユのオリジナリティとは何か?となってくる。

その問いに答える前に、

ロダンはカミーユと別れ、その苦しみで身体を病み、制作が遅れたと言われる『バルザック』像の背景について記したい。

■ロダン作、文豪『バルザック』像左の写真・撮影:大嶋優
――

文芸家協会から依頼を受けて制作された『バルザック』像だが、その当時は世間から酷評され、依頼主からも契約破棄されてしまった作品だ。
しかし、ロダンはこの像に、「成功を収めるだろう」と確信を持っていた。

その制作の様子を聞くと、驚くべきものがある。

ロダンは、バルザックの資料を集めるために奔走し、彼の生涯を知るためにその記録も調査した。
「バルザックの生まれ故郷トゥーレーヌ地方を何度も訪れ、その風景に触れた。バルザックの手紙を読み、バルザックの肖像を研究した。バルザックの作品も何度も何度も横切った。バルザックの精神に掻き立てれ、ロダンはその外見を形成してゆき、バルザックの幻影を現実のものとしていく。途方もない集中と悲愴な昂揚間の瞬間にバルザックを見て、彼を作った」とリルケが書いている。
バルザックの人生と精神を表現しようとしたのだ。
ロダンの途方もない営みを感じる。単なる、インスピレーションや思いつきの産物でないことを。作品のブロンズ像以上の重さが伝わってくるようだ。更に言えば、カミーユとの別れの後に出来た作品であることを思えば、ロダンの悲しみや辛さも、この像の中に込められているかもしれない。

芸術の源泉--「創造の溶鉱炉」

ここに見られる芸術家の途方も無い営みは、あらゆる要素を一つの溶鉱炉に流し込み、そこで混ぜ合わせ、原型をとどめないまでに溶け合わせ、化学反応を起させ、あるいは核融合の熱いエネルギーと共に、一気に噴出させて、造形物を作り上げていく、それが創造行為ではないか、と私は考えた。この「創造の溶鉱炉」で、過去から現在にいたる芸術家の模範も、現在目にするあらゆる自然界の造形物も、そしてよきライバルからのインスピレーションも、師匠の忠告も、世間の評判も、原型をなくすほどに煮えたぎらせ、まったく新しい鋳型に流し込む、そんなイメージが浮かぶ。

繰り返す模倣の末に、溶鉱炉のエネルギーは満たされ、やがて新しい生命を生む。それが作者の独創性と言えるかもしれない。芸術家の仕事はあらゆる素材をその溶鉱炉の中でかき混ぜ、昇華させ、創出すること、ではないか。

カミーユの作品に感じるものは、彼女の「創造の溶鉱炉」から噴出するエネルギーとそこから造形された作品であることだ。あまりにも強烈なエネルギーによって自らがその中に溶けてしまったような終焉でもあった。

作品の背景を知らなくても見ることは出来るが、見ているだけでは理解が及ばない。
一つの作品の中にある作者の人生と、その作品が生まれる更に大きな背景、そこに目を向けようとし、知るほどに豊かな芸術が現出する。知り得ることは、その極一部に過ぎないが、その眼差しを向ける中に自らの鑑賞眼が養われていくと思われる。


更に、 ロダンの影響を受けた日本の芸術家についても後日、書き綴ってみたい。

つづく。 (記事:いわた)


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